京都コラム
2025/06/01
京都・修学院離宮にみる「借景」について
「借景」(しゃっけい)とは、その名の通り、「景色を借りる」ということ。
「借景」は中国明代の書(1628年)に初めて現れる言葉であり、一般的に風景庭園の演出に使われる手法の一つを意味しています。借景を意識した演出によって、人口的なランドスケープと周囲の自然形態が見事に融合し近景遠景の組み合わせの、その三次元的な空間に観る人を魅了する絶妙な仕掛けがあります。

修学院離宮の借景
「借景」の造園技法を取り入れたものとして、おそらく「修学院離宮」は最高形態として評価されているのではないでしょうか。修学院離宮は、京都御所から北東に上り、比叡山の麓にある後水尾天皇が造園した今で言うセカンドハウスです。その洗練された借景演出は現代においても国内外から高い評価を受けています。
洗練された感性の源流
この修学院離宮をプロデュースした後水尾天皇は幼い頃から日々の教育で古今和歌集や新古今和歌集を素読しながらその感性を高め、後にこの文学的素養は当時の一流文化人との出会いによって更に洗練されていった様です。俳諧師の松永貞徳や、芸術家の本阿弥光悦、そして徳川家康の側近であった高僧・天海とは、宗教のみならず政治思想や精神世界など大きく影響を受けていきました。書についても熱心に学び、今でも品格ある筆跡を残しています。この戦国を経た時代に後水尾天皇の培った感性は新しい時代を予感させるものであったのでしょう。
天皇即位と「禁中並公家諸法度」
後水尾天皇は若干14歳で即位しました。この時代は徳川家康による幕府が開かれた時代であり、権力を確固たるものにする為の封建制度を推し進めている頃でした。封建の圧力は朝廷にも及び、後水尾天皇即位の4年後には、幕府による「禁中並公家諸法度」が制定され、朝廷は幕府から厳しい干渉を受ける事になります。
桃山文化と寛永文化
後水尾天皇が京都を中心とする古典文芸や文化を盛り上げようとしたのは、この幕府の圧力に対抗する為の手段だったとの歴史家の認識もあるようです。この後水尾天皇の活動は、戦国の下剋上が終焉し、秩序と落ち着きを取り戻した時代、世の中の文化は華美で豪華なものが際立つ「桃山文化」から、簡素でありながら精神性を表現する「寛永文化」に向かいますが、後水尾天皇の思想が原動力となったのでしょう。そして今ある京都の美しい文化はこの時代が礎となっていきます。
「控えめ」と「調和」の京文化
この戦国から天下泰平の転換期に後水尾天皇の登場は、その後の日本人の哲学や思想、そして美的感覚の方向性を決めたのでしょう。京都には、独特の文化が残っておりますが、その中でも「控えめ」と「調和」の意識には、後水尾天皇の思想を見ることができます。
「借景」景色を借りる。その言葉にはエゴイズムはなく、「控えめ」で「調和する」ことを重んじる精神性が宿っている。「借景」は三次元的な空間を演出する為だけではなく、そこに重要なファクターとしての「精神性」のメッセージが込められている。
まさに修学院離宮は「控えめ」で「調和」を重んじる、そんな演出がなされています。修学院離宮に訪れ、その景色に包まれ、時空を超えて後水尾天皇のメッセージを感じ取ると一層の感動に浸ることが出来るかもしれません。